
カンボジアの歴史というと、アンコール王朝や遺跡を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、現在のカンボジア社会や地雷問題を理解するうえでは、独立後の内戦やクメール・ルージュ政権、その後の和平まで続く近現代史を知ることも重要です。
この記事では、1953年の独立から1970年の政変、クメール・ルージュによる民主カンプチア時代、1979年以降も続いた内戦、パリ和平協定、UNTACによる暫定統治と1993年の王政復古までを、時系列に沿ってわかりやすく解説します。
関連する施設・史跡や映画・書籍も紹介するため、カンボジア旅行やスタディツアーの事前学習にもお役立てください。
本記事では、複数の資料を参照し、できる限り正確でわかりやすい記述を心がけています。ただし、カンボジアの近現代史には、資料や立場によって解釈が異なる点もあり、すべての歴史的考証が確定しているわけではありません。より詳しく学びたい方は、本記事のみで判断せず、専門書や研究資料、博物館の公式情報などもあわせてご確認ください。
カンボジア近現代史の流れを年表で確認
カンボジアの近現代史は、国内の政治対立だけでなく、ベトナム戦争や冷戦、周辺国と国際社会の介入が複雑に重なっています。まずは1953年の独立から、内戦勃発、クメール・ルージュ政権、パリ和平協定、UNTACによる暫定統治、王政復古までの大きな流れを年表で確認しましょう。
以下の年表は、複雑な歴史を理解するための概要として、主な転換点をまとめたものです。

独立以降、カンボジアで起きた大きな変化の一つ目が1970年の政変に伴う内戦勃発です。ここから国内の混乱が続きます。
クメール・ルージュがプノンペンを制圧したのは1975年4月17日で、政権は1979年1月まで続きました。その後、ベトナム軍侵攻を経て、1991年10月23日にパリ和平協定が調印された後、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)は1992年から1993年にかけて活動し、選挙、難民帰還、人権、治安、行政など幅広い分野を担いました。1993年9月には新憲法の公布と新政府の成立により、カンボジアは再び立憲君主制へ移行しています。
一方、クメール・ルージュは和平協定後も一部地域で活動を続けました。ポル・ポトが死亡し、主要幹部が投降した1998年から、組織が崩壊した1999年頃までを、長期にわたった紛争の最終段階として捉える必要があります。
*本文中の歴史上の人物名は、原則として敬称・尊称を省略して表記しています
| 年代 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1953年 | フランスから独立を達成 |
| 1955年 | ノロドム・シハヌークが国王を退位し、政治活動を本格化 |
| 1970年 | ロン・ノルらによる政変が起こり、クメール共和国が成立。シハヌークは国外へ亡命し、内戦が本格化 |
| 1975年4月 | クメール・ルージュが首都プノンペンを制圧し、住民を農村へ強制移住 |
| 1975~1979年 | クメール・ルージュによる民主カンプチア時代。強制労働や迫害、処刑、飢餓、病気などにより、多数の人々が犠牲となる |
| 1979年1月 | ベトナム軍がプノンペンを制圧し、クメール・ルージュ政権が崩壊。しかし、その後も内戦と国際的対立が続く |
| 1989年 | ベトナム軍がカンボジアから撤退 |
| 1990年 | 日本で「カンボジアに関する東京会議」が開催され、和平に向けた対話が進められる |
| 1991年 | パリ和平協定が調印され、国連を中心とする和平プロセスが始まる |
| 1992年 | 国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が活動を開始 |
| 1993年5月 | UNTACの管理・監視のもとで制憲議会選挙が実施される |
| 1993年9月 | 新憲法が公布され、立憲君主制が復活。シハヌークが国王に復位 |
| 1998~1999年頃 | ポル・ポトの死や主要幹部の投降などを経て、クメール・ルージュ組織が事実上崩壊 |
独立後のカンボジアと内戦の始まり
1953年にフランスから独立したカンボジアは、ノロドム・シハヌークを中心に新たな国家づくりを進めました。
しかし、隣国で拡大したベトナム戦争や国内の政治対立、外国勢力の介入が重なり、次第に情勢は不安定になっていきます。ここでは、独立から1970年代の内戦に至るまでの流れを確認します。
フランスからの独立とシハヌーク時代
カンボジアは、ノロドム・シハヌーク国王による外交交渉などを経て、1953年11月にフランスから完全独立を達成しました。シハヌークは1955年に父へ王位を譲り、政治団体「サンクム・リアハ・ニヨム」を結成して政界へ進出します。その後は首相などを務め、1960年に父が逝去すると国家元首に就任しました。
シハヌークは、東西冷戦のいずれの陣営にも深く属さない中立外交を掲げ、独立直後の国家運営を主導します。政治的自由の制限や反対勢力への圧力といった問題もありましたが、1950年代後半から1960年代前半は、後の内戦期と比べれば比較的安定した時代でした。
ベトナム戦争がカンボジアに与えた影響
シハヌークは、ベトナム戦争への巻き込まれを避けるため、中立政策の維持を目指しました。しかし、カンボジア東部の国境地帯には、北ベトナム軍や南ベトナム解放民族戦線の基地や補給経路が設けられるようになります。
シハヌーク政権は、こうした外国軍の活動を軍事力によって完全に排除することが難しいなか、一定期間、その存在を事実上容認していました。シアヌークビル港から搬入された物資も、カンボジア領内を経由して南ベトナムの共産勢力へ供給されていたとされています。これらは、一般に「ホーチミン・ルート」と呼ばれる補給網の一部または関連経路として機能しました。
一方、北ベトナム軍などの駐留や活動規模が拡大すると、シハヌークも警戒を強め、その縮小や撤退を求めるようになります。1969年には、アメリカ軍がカンボジア領内の共産勢力の拠点を標的として秘密爆撃を開始しました。中立を保とうとするシハヌークの外交政策は、次第に行き詰まっていきます。
1970年の政変とロン・ノル政権
1970年3月、シハヌークが外遊している間に、首相兼国防相のロン・ノル将軍や副首相シリク・マタクらが主導する政治的な動きが進みました。同月18日、国民議会はシハヌークを国家元首から解任し、同年10月には王政を廃止して「クメール共和国」の成立を宣言します。
この政変をめぐっては、シハヌーク政権と対立していたアメリカの関与を指摘する見方もあります。しかし、アメリカが政変を直接計画・実行したことを裏付ける決定的な証拠は、現在まで確認されていません。一方で、アメリカがシハヌーク失脚後のロン・ノル政権を支持し、その後、軍事・経済面で大規模な支援を行ったことは明らかです。
国外へ追われたシハヌークは北京に滞在し、ロン・ノル政権への抵抗を国民に呼びかけました。国内では政府軍と、クメール・ルージュを含む反政府勢力との戦闘が本格化します。さらに北ベトナム軍の介入やアメリカ・南ベトナム軍の越境作戦も加わり、カンボジアは全面的な内戦へと突入していきました。
クメール・ルージュの台頭
「クメール・ルージュ」とは、ポル・ポトらが指導したカンボジアの共産主義勢力を指す呼称です。政変後、シハヌークがロン・ノル政権への抵抗を国民に呼びかけたことで、シハヌークを支持していた農村部の人々の一部も反政府側へ加わりました。クメール・ルージュは、国民的人気の高かったシハヌークの影響力を利用しながら、勢力を拡大していきます。
ロン・ノル政権の統治能力低下、戦闘や空爆による農村社会の混乱、経済の悪化なども、反政府勢力が支持を広げる背景となりました。1973年に外国軍の直接的な軍事介入が縮小した後も内戦は続き、クメール・ルージュは支配地域を拡大します。そして1975年4月、首都プノンペンを制圧するに至りました。
クメール・ルージュ政権下のカンボジア
1975年4月17日、クメール・ルージュは首都プノンペンを制圧しました。長期化していた内戦が終わったことを喜ぶ市民もいましたが、その直後から都市住民の強制移住が始まります。
クメール・ルージュは国名を「民主カンプチア」とし、貨幣や市場、私有財産を廃したうえで、農業の集団化と徹底した自力更生によって、階級のない共産主義社会を短期間で実現しようとしました。その過程で、人々は厳しい統制下に置かれ、強制労働や飢餓、病気、迫害、処刑などによって多くの命が失われました。
クメール・ルージュ政権が続いたのは、1975年4月から1979年1月までの約3年8か月です。期間としては4年に満たないものの、社会制度や家族関係、宗教、教育、文化に深刻な被害を残しました。
1975年のプノンペン制圧と住民の強制移住
クメール・ルージュがプノンペンへ入城すると、兵士たちは市民に都市から退去するよう命じました。アメリカ軍による空爆の危険があるため、数日間だけ避難すると説明された例も伝えられています。しかし、住民が短期間で戻ることは許されませんでした。
通称「クメール・ルージュ裁判」と呼ばれるカンボジア特別法廷(ECCC)は、プノンペンにいた少なくとも200万人が強制的に移動させられたと認定しています。病院の患者や高齢者、妊婦、乳幼児を含む住民も、十分な水や食料、医薬品を持たないまま移動を強いられました。長い道のりを歩く途中で命を落とした人も少なくありません。プノンペンだけでなく、バッタンバンやコンポンチャムなど、各地の都市でも住民の強制移住が行われました。
農村部へ移された都市住民は、以前からクメール・ルージュ支配地域で暮らしていた「基礎人民」や「旧人民」と区別され、「新人民」または「4月17日人民」と呼ばれました。これは、クメール・ルージュがプノンペンを制圧した4月17日に由来する呼称です。
新人民は、都市で暮らしていたことや、旧クメール共和国との関係、職業、教育歴などを理由に警戒されました。地域や時期によって差はありましたが、食料配給や労働条件、移動の自由などで不利な扱いを受ける場合もありました。
民主カンプチアが目指した社会
クメール・ルージュは、従来の政治・経済・社会制度を根本からつくり替えようとしました。都市人口を農村へ移し、農地や生産物を集団で管理する協同組合を組織し、人々を大規模な農業労働へ動員します。
貨幣と市場取引は停止され、私有財産も事実上認められなくなりました。食事は家庭ごとではなく共同食堂で取ることが原則となり、居住地、労働、結婚、家族生活なども「アンカー」と呼ばれた組織の管理下に置かれました。
こうした政策は、一般的な解説の中で「原始共産主義的」と表現されることがあります。ただし、学術的な意味での「原始共産主義」と同一ではありません。クメール・ルージュが目指したのは、単純に古代的な農村社会へ戻ることではなく、農業の集団化と自力更生を通じて生産量を急増させ、急進的な共産主義国家を建設することでした。
クメール・ルージュを率いたポル・ポトは、本名をサロット・サルといい、1949年にフランスへ留学しました。パリ滞在中にフランス共産党や左翼系のカンボジア人学生運動へ接近し、共産主義思想への関与を深めたとされています。
ただし、クメール・ルージュの思想がフランス留学だけで形成されたわけではありません。マルクス主義や毛沢東主義に加え、反植民地主義、徹底した自力更生、外国勢力への警戒、強いクメール民族主義など、複数の要素が結びついていました。
強制労働と人々の暮らし
農村へ移された人々は、稲作、森林の開墾、運河や堤防の建設などに動員されました。長時間にわたる労働が課された一方で、食料配給は十分ではなく、休息や医療を受けることも困難でした。
農業経験のない都市出身者も、簡単な説明だけで重労働へ従事させられました。病気やけがをしても休むことが難しく、働けない状態を怠慢や反革命的な態度とみなされることもありました。
医師や薬品も著しく不足していました。近代医療は革命前の社会と結びついたものとして否定される傾向があり、専門知識を持たない者が治療を担当する例もありました。そのため、本来であれば治療できた病気や負傷によって命を落とす人も相次ぎます。
地域や時期によって生活状況には差があったものの、慢性的な栄養失調、過労、マラリア、赤痢などの病気が広がりました。クメール・ルージュ政権下の犠牲者には、処刑された人だけでなく、強制労働や飢餓、病気、医療不足によって亡くなった人も数多く含まれます。
粛清と大量虐殺
クメール・ルージュは、宗教や伝統的な社会制度を、革命前の古い秩序に属するものとして否定しました。
仏教の実践は禁止され、僧侶は還俗や労働を強いられました。寺院や仏教施設の多くは、倉庫、穀物庫、共同食堂、収容施設などへ転用されました。クメール・ルージュ裁判でも、民主カンプチア時代に仏教の実践が禁止されていたとの判断が示されています。
影響を受けたのは宗教だけではありません。学校教育、地域共同体、祭礼、芸術活動、伝統的な生活習慣なども大きく制限されました。家族よりも組織への忠誠が優先され、親子や夫婦が別々の作業班へ分けられることもありました。
イスラム教を信仰するチャム人に対しては、宗教実践だけでなく、チャム語の使用、衣服、髪形、食習慣なども規制されました。こうした政策によって、カンボジアの宗教、伝統、文化、家族や地域社会の基盤は深刻な打撃を受けました。
クメール・ルージュ時代の惨事は、一般に「カンボジア大虐殺」や「カンボジア・ジェノサイド」と呼ばれています。ただし、日常的な用法と国際法上の犯罪類型は、必ずしも一致しません。
国際法上のジェノサイドは、特定の国民的・民族的・人種的・宗教的集団を、全部または一部破壊する意図をもって行われる犯罪です。そのため、政治的立場、社会階級、職業、都市出身者であることなどを理由に行われた迫害が、すべて自動的にジェノサイドへ分類されるわけではありません。
クメール・ルージュ裁判では、ベトナム系住民とチャム人に対する一部の犯罪がジェノサイドと認定されました。一方、都市住民の強制移住、殺害、絶滅、強制労働、拘禁、拷問、政治的・宗教的迫害などの多くは、主に「人道に対する罪」として認定されています。
*ジェノサイドに該当しない犯罪の被害が軽いという意味ではなく、対象となった集団や加害行為の性質、立証された意図によって、国際法上の分類が異なっています。
どれほどの人が犠牲になったのか
クメール・ルージュ政権下で亡くなった人数については、当時の人口統計や行政資料が十分に残されていないため、研究によって推計が異なります。
一般的には、約150万~200万人が犠牲になったとされ、当時のカンボジア人口のおよそ4分の1に相当すると考えられています。
この数字には、拘禁施設や処刑場で殺害された人だけでなく、強制労働、飢餓、栄養失調、病気、医療不足などによる死者も含まれます。したがって、クメール・ルージュ時代の被害を「大量処刑」だけで捉えることはできません。
急進的な社会改造、非現実的な農業政策、食料配分の失敗、医療体制の崩壊、組織的な迫害や粛清が重なった結果として、極めて多くの人々が命を失いました。
クメール・ルージュ政権の崩壊とその後の内戦
1979年1月、ベトナム軍と、ベトナムへ逃れていたカンボジア人反クメール・ルージュ勢力がプノンペンを制圧し、民主カンプチア政権は崩壊しました。しかし、これによってカンボジアの戦争が終わったわけではありません。
新たに成立した政権をベトナムが支援する一方、クメール・ルージュはタイ国境付近へ拠点を移し、武装闘争を継続しました。さらに、カンボジアをめぐってベトナム・ソ連側と、中国・アメリカ・東南アジア諸国などの対立が重なり、紛争は冷戦下の国際政治とも深く結びついていきます。
ベトナムとの対立と1979年の政権崩壊
民主カンプチアとベトナムの間には、国境や領土、両国の共産主義勢力の関係などをめぐる深い対立がありました。1977年から1978年にかけて国境地帯で双方の軍事衝突が激化し、クメール・ルージュ軍は国境を越えてベトナム領内への攻撃を繰り返しました。
また、ECCC(カンボジア特別法廷)の資料によると、カンボジア国内では、ベトナム系住民に対する追放、拘束、殺害も進められました。クメール・ルージュはベトナムを強く警戒し、国内に暮らしていたベトナム系住民だけでなく、ベトナムとのつながりを疑われた人々も敵視するようになります。
同じ時期、クメール・ルージュ内部では、東部地域の幹部や兵士、住民を対象とする大規模な粛清が行われました。東部地域はベトナムに近く、指導部から忠誠を疑われやすかったためです。粛清を逃れたヘン・サムリンらはベトナムへ渡り、1978年12月に「カンプチア救国民族統一戦線」を結成しました。同月、ベトナム軍は同戦線とともにカンボジアへ大規模な軍事侵攻を開始します。
1979年1月7日、ベトナム軍とカンボジア人反クメール・ルージュ勢力はプノンペンを制圧しました。ポル・ポトをはじめとするクメール・ルージュ指導部は西部へ撤退し、民主カンプチア政権は事実上崩壊します。
現在、1月7日はクメール・ルージュ政権からの解放を記念するカンボジアの公休日となっています。
一方、この軍事介入はその後のベトナム軍による長期駐留にもつながったため、「虐殺政権からの解放」と評価する見方と、「外国軍による侵攻・占領の始まり」と捉える見方があり、歴史的・政治的評価が分かれる側面もあります。
プノンペン制圧後、ヘン・サムリンを中心とする新政権が発足し、国名は「カンプチア人民共和国」となりました。1970年以降の国名は、次のように変化しています。
| 期間 | 国名 |
|---|---|
| 1953~1970年 | カンボジア王国 Kingdom of Cambodia |
| 1970~1975年 | クメール共和国 Khmer Republic |
| 1975~1979年 | 民主カンプチア Democratic Kampuchea |
| 1979~1989年 | カンプチア人民共和国 People’s Republic of Kampuchea |
| 1989~1993年 | カンボジア国 State of Cambodia |
| 1993年~現在 | カンボジア王国 Kingdom of Cambodia |
1979年に戦争は終わらなかった
プノンペンを追われたクメール・ルージュは、カンボジア西部やタイとの国境地帯へ拠点を移し、ゲリラ戦を続けました。政権としての民主カンプチアは崩壊しましたが、クメール・ルージュという武装組織そのものが消滅したわけではありませんでした。
一方、カンプチア人民共和国を支えるため、ベトナム軍はカンボジア国内に大規模な兵力を駐留させました。これに対し、クメール・ルージュのほか、シハヌークを支持する王党派勢力や、ソン・サンが率いる反共産主義勢力も、ベトナム軍とプノンペン政権に抵抗します。
1982年には、次の三つの勢力が「民主カンプチア連合政府(通称・三派連合)」を結成しました。英語ではCoalition Government of Democratic Kampuchea(CGDK)と呼ばれています。
- クメール・ルージュ
- シハヌークを中心とする王党派勢力
- ソン・サンが率いる反共産主義勢力
これらの勢力は思想や政治的目的が異なっていましたが、ベトナム軍の撤退とプノンペン政権への対抗という点で協力しました。
その結果、カンボジアでは1980年代を通して戦闘が続きました。主な戦場はタイ国境に近い西部や北西部でしたが、住民の避難、村落や交通網の破壊、地雷の埋設など、紛争の影響は広い地域に及びました。
国際社会を二分したカンボジア問題
1979年以降のカンボジア問題は、国内の政権争いにとどまらず、冷戦下の国際対立の一部となりました。ベトナムとソ連は、プノンペンに成立したカンプチア人民共和国を支援しました。一方、中国は、当時ベトナムやソ連と対立していたことから、クメール・ルージュへの支援を続けます。
アメリカ、タイ、東南アジア諸国の多くも、ベトナム軍のカンボジア駐留を侵攻・占領と捉え、カンプチア人民共和国を正式な政府として承認しませんでした。

国連では、1979年以降も民主カンプチア側がカンボジアの議席を維持し、1982年からはクメール・ルージュを含む民主カンプチア連合政府が代表権を引き継ぎました。大量虐殺を行ったクメール・ルージュが、政権崩壊後も国際的な連合の一員として扱われるという、非常に複雑な状況が続いたのです。
これは、アメリカをはじめとする各国が、クメール・ルージュの犯罪を肯定していたという単純な構図ではありません。当時の国際社会では、ベトナム軍の駐留と、その背後にあるソ連の影響力拡大を阻止することが優先されました。
しかし、その外交判断が結果的にクメール・ルージュを含む反政府勢力の国際的立場を支え、紛争の長期化にも影響を与えた点は、カンボジア近現代史を理解するうえで重要です。
内戦によって残された地雷問題
カンボジアに残る地雷や不発弾は、クメール・ルージュ政権の約4年間だけに生じたものではありません。
1970年代の内戦、ベトナム軍の駐留、1980年代から1990年代にかけての政府軍と反政府勢力の戦闘など、長期にわたる紛争の中で、複数の勢力が地雷を使用しました。
地雷は、敵軍の移動を妨げたり、拠点や国境を防御したりする目的で埋設されました。しかし、戦闘が終わった後も地中に残り、農作業、森林での採取、住民の帰還、道路や住宅の建設などを妨げます。地雷事故によって死亡した人や手足を失った人も多く、現在も一部の地域では除去作業と危険回避教育が続いています。
また、カンボジア東部を中心に残る不発弾には、ベトナム戦争期のアメリカ軍による空爆の影響も含まれます。対人地雷と空爆による不発弾は異なるものですが、いずれもカンボジアの長期的な爆発物汚染を構成しています。
地雷除去には、埋設場所の調査、爆発物の除去、住民への教育、被害者への医療や生活支援など、多方面からの長期的な取り組みが必要です。カンボジアの地雷問題は、長く続いた内戦が、戦闘の終結後も国土と人々の暮らしに影響を残していることを示しています。
パリ和平協定とUNTACによる和平への道
1980年代を通して続いた内戦は、カンボジア国内の勢力だけで解決できる問題ではなくなっていました。ベトナムや中国、ソ連、アメリカ、東南アジア諸国などの利害が複雑に絡み、和平の実現には国際的な調整が必要でした。
冷戦終結へ向かう国際情勢の変化、中ソ関係の改善、ベトナム軍撤退の動き、長期化した紛争の軍事的膠着などを背景に、1980年代後半から和平交渉が本格化。1991年にはパリ和平協定が調印され、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)のもとで、停戦、難民の帰還、選挙、国家再建に向けた取り組みが進められました。
和平交渉が進められた背景
1980年代後半になると、カンボジアを取り巻く国際環境は大きく変化しました。ソ連ではゴルバチョフ政権のもとで外交方針の転換が進み、冷戦そのものも終結へ向かいます。中ソ関係の改善も、カンボジアをめぐる国際的な対立を緩和する要因となりました。
ベトナムにとっても、カンボジアへの長期駐留は軍事・経済・外交面で大きな負担であり、撤退に向けた動きが始まります。一方、カンボジア国内では政府側と反政府勢力のいずれも決定的な勝利を得られず、軍事的な膠着状態が続いていました。
こうした状況のもと、フランスやインドネシアを中心に、国連、周辺国、関係各国による和平交渉が進められます。インドネシアは、カンボジアの各勢力を集めたジャカルタ非公式会合を主導しました。1989年にはフランスとインドネシアの共同議長のもと、パリでカンボジア和平に関する国際会議が開催されます。しかし、この段階では各勢力の対立を解消できず、最終的な合意には至りませんでした。
同年、ベトナム軍はカンボジアからの撤退を完了したと発表しました。ただし、ベトナム軍が撤退した後も、カンボジア国内では政府軍と反政府勢力の戦闘が続いていました。
日本もタイと連携し、和平に向けた対話を後押ししました。1990年6月には、シハヌークとフン・センを東京へ招き、「カンボジアに関する東京会議」を開催します。この会議では、停戦や国連の関与、カンボジアの主権を代表する機関の設置などについて協議が行われ、その後の和平交渉を進める一つの契機となりました。
その後も国連安全保障理事会の常任理事国や周辺国による調整が続き、1990年には「カンボジア最高国民評議会(SNC)」が設けられました。SNCは、移行期間中にカンボジアの主権を体現する機関として位置づけられ、プノンペン政権と三つの反政府勢力が参加しました。シハヌークは、後にその議長を務めています。
1991年には各勢力が停戦に合意し、和平協定の締結に向けた条件が整えられていきました。
1991年のパリ和平協定
1991年10月23日、カンボジアの四つの政治勢力と関係各国は、フランスのパリで一連の和平文書に調印しました。これらは総称して「パリ和平協定」と呼ばれています。
協定に参加したカンボジア側の四勢力は、次のとおりです。
- カンボジア国政府
- クメール・ルージュ
- シハヌークを中心とする王党派
- ソン・サンを中心とする反共産主義勢力
パリ和平協定は、単に停戦を定めたものではありません。カンボジアの主権、独立、領土保全、中立、国民統合を確認したうえで、自由で公正な選挙、難民の帰還、人権の保障、各武装勢力の武装解除、国家再建などを包括的に進める枠組みを定めました。
また、選挙によって新しい政府が成立するまでの移行期間中、国連がカンボジアの行政、治安、選挙などに広く関与することも決められました。国連が一国の統治に関わる幅広い権限を担った点で、当時としては異例の和平活動でした。
ただし、協定が調印されたからといって、国内の対立や戦闘が直ちにすべて解消されたわけではありませんでした。特にクメール・ルージュは、後に武装解除や選挙への協力を拒み、和平プロセスから事実上離脱していきます。
UNTACとは
UNTACとは、United Nations Transitional Authority in Cambodiaの略称で、日本語では「国連カンボジア暫定統治機構」と訳されます。
パリ和平協定を実施するため、国連安全保障理事会は1992年2月にUNTACを設置しました。同年3月には、明石康が国連事務総長特別代表としてプノンペンに到着し、本格的な活動が始まりました。UNTACの活動期間は、1992年から1993年9月までです。
UNTACの任務は、選挙の実施だけではありません。主な活動には、次のようなものが含まれていました。
- 停戦の監視
- 外国軍や外国からの軍事援助の停止確認
- 各武装勢力の集結、武装解除、動員解除
- 行政機関や警察活動の監視
- 治安維持
- 人権の保護と啓発
- 難民や国内避難民の帰還・再定住
- 選挙人登録と選挙の実施
- 地雷除去と復興支援
UNTACには、軍人、軍事監視員、文民警察、選挙要員、行政官などが参加しました。世界各国から派遣された国際要員とカンボジア人職員による大規模な活動が展開され、当時の国連平和維持活動(PKO)として最大規模の一つとなりました。
日本からも、自衛隊員、文民警察官、選挙監視員、国連ボランティアなどが派遣されています。UNTACは、日本が国連平和維持活動へ本格的に参加した初期の事例としても知られています。また、日本は1992年にカンボジア復興閣僚会議を東京で開催し、和平協定の実施と復興支援の面でも国際的な取り組みを支えました。
一方、UNTACの活動がすべて計画どおりに進んだわけではありません。パリ和平協定では、各勢力の兵士を集結させ、武装解除と動員解除を進めることが定められていました。しかし、クメール・ルージュは支配地域へのUNTAC要員の立ち入りを拒み、武装解除にも応じませんでした。
他の勢力も、クメール・ルージュが武器を保持していることを理由に、全面的な武装解除へ消極的になります。そのため、協定が目指した各武装勢力の大規模な動員解除は、十分には実現しませんでした。
また、政治的な脅迫や暴力、民族を標的とした襲撃、UNTAC職員への攻撃も発生しました。クメール・ルージュは最終的に選挙への参加を拒否し、完全に中立で安全な環境が整ったとはいえない状況が続きます。それでもUNTACは、カンボジア国民の投票機会を確保することを優先し、1993年の選挙を予定どおり実施しました。
1993年総選挙と王政復古
選挙で選ばれた制憲議会は、新しい憲法の制定作業を進めました。1993年9月24日に新憲法が公布され、国名は「カンボジア王国」となり、立憲君主制が復活します。
シハヌークは再び国王に即位しました。新憲法において、国王は「君臨すれども統治せず」を原則とする国家元首とされ、政治は憲法と議会制度に基づいて行われることになりました。
新政府の成立によってUNTACの主要任務は終了し、1993年9月に暫定統治は終結しました。これにより、国連が直接関与した移行期間から、カンボジア人自身による国家運営へと移っていきます。
ただし、1993年に新政府が成立した後も、すぐにカンボジア全土で完全な平和が実現したわけではありません。
和平後も残ったクメール・ルージュ勢力
クメール・ルージュは1993年の選挙を拒否し、タイ国境に近い西部や北部を中心に武装活動を継続しました。新政府の統治が十分に及ばない地域も残り、戦闘や住民への襲撃、地雷被害などが続きます。
しかし、1990年代半ば以降、政府による投降の呼びかけや組織内部の対立によって、クメール・ルージュから離脱する兵士や幹部が増えていきました。1996年には有力幹部イエン・サリが離反し、多数の兵士とともに政府側へ投降します。
1997年には、ポル・ポトが幹部ソン・センとその家族の殺害を命じたとされる事件をきっかけに、クメール・ルージュ内部の権力闘争が激化しました。ポル・ポトは失脚し、組織内で行われた公開の「人民裁判」によって、終身の自宅軟禁に相当する処分を受けました。ただし、これは国際法廷やカンボジアの正式な司法機関による裁判ではありません。クメール・ルージュ内部の権力闘争のなかで行われた、組織内の政治的な処分でした。
ポル・ポトは1998年4月に死亡し、国際的な司法手続きによって責任を問われることはありませんでした。同年末には、ヌオン・チアやキュー・サムファンら主要幹部が政府側へ投降します。
1999年までに残存勢力の多くが投降・武装解除し、クメール・ルージュは組織として事実上崩壊しました。したがって、1991年のパリ和平協定と1993年の王政復古は和平への決定的な転換点でしたが、長く続いた内戦が実質的に終息するまでには、さらに数年を要したことになります。
カンボジア近現代史を学べる施設・史跡
カンボジアには、クメール・ルージュ政権による虐殺や長く続いた内戦、地雷問題について学べる施設や史跡が各地にあります。歴史を文章だけで理解するのが難しい場合でも、当時使用されていた建物や資料、現在の除去活動を実際に見ることで、出来事の規模や社会への影響をより具体的に捉えられるはずです。
ここで紹介する場所の中には、犠牲者を追悼し、戦争や虐殺の記憶を伝えるための場所も含まれています。展示には遺骨や犠牲者の写真、拷問・処刑に関する資料などが含まれる場合がありますが、写真撮影やSNSへの投稿では、各施設のルールを守り、犠牲者や遺族への配慮を忘れないようにしましょう。
虐殺と収容の実態を伝える場所
クメール・ルージュ政権下の収容や拷問、処刑の実態を伝える代表的な場所が、プノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)とチュンエク・キリング・フィールド(Choeung Ek Genocidal Center)です。
トゥールスレンは、学校を転用した拘禁・尋問施設「S21」の跡地です。独房や収容者の写真、尋問記録などが保存され、建物自体が当時の弾圧を伝えています。S21で尋問を受けた収容者の多くは、その後チュンエクへ移送され、処刑されました。現在のチュンエクには、集団埋葬地や遺骨を納めた慰霊塔が残されています。
両施設は旧M-13刑務所とともに、2025年7月、「カンボジアの記憶の場所―抑圧の中心地から平和と省察の場へ」としてユネスコ世界遺産に登録されました。3施設は、初期の拘禁体制からS21での組織的な尋問、チュンエクでの処刑に至る一連の弾圧を伝える構成資産です。
ただし、これらは単に「衝撃的な展示を見る観光地」ではありません。犠牲者を追悼するとともに、同じような惨事を繰り返さないために歴史を学ぶ場所とされています。館内や敷地内では静かに見学し、写真撮影の可否や立入制限など、それぞれの案内に従いましょう。

内戦後の地雷問題を学べる施設
カンボジアの地雷問題は、クメール・ルージュ政権だけによって生じたものではありません。1970年代から1990年代まで続いた内戦のなかで、クメール・ルージュ、カンボジア政府軍、ベトナム軍など複数の勢力が地雷を使用しました。
カンボジアには、数十年にわたる紛争によって推計400万~600万発の地雷やその他の爆発物が残されたと説明されることがあります。ただし、この数字は正確な埋設数を記録したものではなく、紛争後に残された地雷・爆発物の規模を示す推計値です。
1979年から2023年までに記録された地雷・不発弾による被害は、死者1万9,822人、負傷または四肢切断を含む被害者4万5,215人に上ります。
APOPOビジターセンター
シェムリアップ市内で地雷除去について学べる施設の一つが、APOPOビジターセンターです。
APOPOは、優れた嗅覚を持つアフリカオニネズミを訓練し、地雷や不発弾の探知に活用している国際的な非営利団体です。地雷探知に携わるネズミは「HeroRAT」と呼ばれ、カンボジアではCMACと協力して地雷除去活動を行っています。

ビジターセンターでは、カンボジアに地雷が残された歴史や、人道的地雷除去の手順、HeroRATの訓練方法などについてガイド付きで学べます。模擬地雷原で行われる探知デモンストレーションを見学できるため、動物の嗅覚が実際の除去作業にどのように活用されているのか、視覚的に理解しやすい施設です。
市内中心部から比較的アクセスしやすく、所要時間も1時間ほどなので、地雷問題を初めて学ぶ方や、子どもを含む家族、スタディツアーにも向いています。
CMACの地雷関連施設
カンボジア政府の地雷対策機関であるCambodian Mine Action Centre(CMAC/カンボジア地雷対策センター)も、シェムリアップ州内に地雷問題と平和構築を伝える施設を整備しています。
従来の「Peace Museum of Mine Action」を大幅に拡張し、Techo Peace Museumとしてオープン予定です。2026年7月時点ではまだ正式オープンしていませんが、完成後はカンボジアでも有数の規模を持つ地雷・平和学習施設になると考えられます。
カンボジアの戦争の歴史、地雷・不発弾、除去活動、被害者支援、平和構築の歩みなどを幅広く学べる、大規模な地雷・平和学習施設になる予定です。

実は2025年6月に一般公開前の段階で特別に施設を見学する機会がありました!まだ見学エリアは限られていたものの、敷地はかなり広大で、展示内容がとても充実していました。屋外エリアにはKOMATSUなどの対人地雷除去機も展示されています。

カンボジア近現代史を知るための映画・書籍
カンボジアの近現代史をより具体的に理解するには、映画や書籍も有効です。ここでは、内戦期とクメール・ルージュ政権下を異なる視点から描いた3作品を紹介します。いずれも戦闘や虐殺、死に関する描写を含むため、視聴および読書時にはご注意ください。
映画で当時のカンボジアを知る
『キリング・フィールド』
『キリング・フィールド』は、アメリカ人記者シドニー・シャンバーグと、カンボジア人記者・通訳のディス・プランの実体験をもとにした1984年の映画です。
物語は、内戦下の取材活動から1975年のクメール・ルージュによるプノンペン制圧、外国人の退去後に国内へ取り残されたプランの過酷な体験へと続きます。二人の友情を軸に、政権交代によって人々の日常が急速に失われていく様子を描いた作品です。
戦場や虐殺の描写だけでなく、外国人記者とカンボジア人協力者の立場の違い、報道に携わる者の責任についても考えさせられます。内戦末期からクメール・ルージュ政権成立後までの流れを知る、代表的な映画の一つです。
『最初に父が殺された』
『最初に父が殺された』は、カンボジア出身の作家ルオン・ウンによる回想録を原作とした2017年の映画です。アンジェリーナ・ジョリーが監督を務め、クメール語を中心に制作されました。
1975年にクメール・ルージュが政権を掌握した後、プノンペンから強制移住させられた5歳の少女ルオンと、その家族の体験が描かれます。物語が幼い子どもの視点で進むため、政治状況を十分に理解できないまま、生活や家族が壊されていく恐怖が強く伝わる作品です。
強制移住、共同生活、食料不足、家族の離散、児童への軍事訓練など、民主カンプチア時代の暮らしを具体的に知ることができます。史実を網羅的に解説する作品ではありませんが、一人の子どもと家族の体験を通して、政策が一般市民に与えた影響を理解するうえで参考になります。
『地雷を踏んだらサヨウナラ』
『地雷を踏んだらサヨウナラ』は、カンボジア内戦を取材した実在の日本人報道写真家・一ノ瀬泰造の生涯を描いた1999年の映画です。浅野忠信が一ノ瀬を演じ、内戦下のカンボジアで撮影を続けながら、クメール・ルージュ支配地域にあったアンコール・ワットを目指す姿が描かれています。
一ノ瀬の写真資料を保存・紹介する公式サイトにも、1973年にシェムリアップへ移り、クメール・ルージュ支配下のアンコールを目指した経歴が記されています。
本作の主な舞台は、クメール・ルージュが政権を掌握した1975年以降ではなく、ロン・ノル政権と反政府勢力が戦っていた1970年代前半の内戦期です。そのため、『キリング・フィールド』や『最初に父が殺された』とは異なる時代を扱っています。
戦争を取材する報道写真家の情熱や危うさに加え、当時のカンボジアの緊迫した情勢を、日本人の視点から知ることができる作品です。一ノ瀬泰造の人物像や足跡をさらに詳しく知りたい方は、本人の手紙や写真を収めた関連書籍とあわせて鑑賞すると、より理解が深まるでしょう。
書籍で歴史をさらに深く学ぶ
映画に加えて、体験記、小説、歴史研究、憲法研究などを読むことで、同じ時代を異なる立場から捉えられます。ここでは、カンボジアの内戦やクメール・ルージュ政権、和平後の国家再建について理解を深められる6冊を紹介します。
小説『カンボジア 花のゆくえ』/パル・ヴァンナリーレアク著
プノンペンから強制移住させられた人々の運命を描く長編小説。著者自身の体験を重ね、飢餓や強制労働の惨状を伝えます。
回想録『最初に父が殺された―あるカンボジア人少女の記憶―』/ルオン・ウン著
5歳でクメール・ルージュ時代を経験した著者の回想録。家族の離散、飢え、強制労働、児童への軍事訓練を描きます。
歴史研究『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』/山田寛著
クメール・ルージュの成立から政権崩壊までをたどり、急進的な革命が大量の犠牲を生んだ背景と過程を解説します。
現地記録『カンボジア最前線』/熊岡路矢著
難民キャンプやカンボジア国内で活動した著者が、人々の証言を交えながら、内戦や難民問題、和平への歩みを伝えます。
憲法『カンボジア憲法論』/四本健二著
カンボジアの憲法史と1993年憲法を分析し、王制、民主主義、人権保障、和平後の国家再建について考察する専門書です。
S21研究『ポル・ポト 死の監獄S21―クメール・ルージュと大量虐殺』/デーヴィッド・チャンドラー著
S21に残された記録をもとに、逮捕、尋問、拷問、処刑の仕組みを再構成し、クメール・ルージュの恐怖政治に迫ります。
カンボジアの現在を理解するための近現代史
ここまで、フランスからの独立、内戦、クメール・ルージュ政権、1979年以降も続いた武力対立、パリ和平協定、UNTACによる暫定統治と王政復古まで、カンボジア近現代史の流れを紹介しました。現在も残る地雷・不発弾問題や、虐殺の記憶を伝える施設は、長期にわたる紛争の影響を今に伝えています。
一方、現在のカンボジアは、過去の悲劇だけで語られる国ではありません。歴史を学ぶことは、復興を重ねてきた社会や、今を生きる人々への理解を深めることにもつながります。カンボジア旅行やスタディツアーの際には、遺跡や観光地だけでなく、近現代史にも目を向けてみてください。
なお、本記事ではできる限り正確な記述を心がけていますが、一部の出来事には異なる歴史解釈や見解があります。より詳しく知りたい方は、専門書や研究資料、博物館・公的機関の公式資料などもあわせてご確認ください。



























UNTACの活動期間中、日本人では、国連ボランティアとして選挙準備活動に従事していた中田厚仁さんと、文民警察要員として派遣されていた高田晴行警視が任務中に亡くなりました。中田さんは1993年4月、高田警視は同年5月に殉職しています。
中田厚仁さんは、国連ボランティアとしてコンポントム州で選挙準備に携わっていました。現在、サンボー・プレイ・クック遺跡群に近い地域には、中田さんの名前にちなむ通称「アツ・スクール」があります。学校では現在もその功績が大切に記憶され、敷地内には慰霊碑も設けられています。
高田晴行警視は、岡山県警察からUNTACの文民警察部門へ派遣され、治安維持や現地警察への指導などに従事しました。1993年5月4日、日本人文民警察官が乗った車両が武装集団の襲撃を受け、高田警視が亡くなり、同乗していた4人も負傷しました。バンテアイ・チュマール遺跡の近郊には、高田警視の名前を冠した「TAKATA HARUYUKI SCHOOL」があります。私たちも現地を訪れ、学校を見学しました。
二つの学校は、カンボジア和平のために活動し、命を落とした二人の日本人の記憶が、現在も現地の教育の場に受け継がれていることを伝えています。