壮大で神秘的なカンボジアの遺跡は、見るだけでも楽しいですが、その歴史を知るとさらに楽しむことができます! 今回は、学校ではなかなか習わないカンボジアを中心とした東南アジアの歴史を見ていきましょう。
カンボジアにはアンコール王朝を中心とした輝かしい歴史がある一方で、クメール・ルージュによる虐殺などの負の側面もあります。
近現代史は複雑に国際情勢が絡み合っていて、混乱する部分も多いですが、カンボジアをより深く理解するために、ぜひ最後まで読んでみてください。
カンボジアの歴史の流れ
厳密な区分は書籍や専門家によって異なる部分がありますが、ここでは大きく8つに分けて、古代から現代までの流れを見ていきます。
Klook.com先史時代
カンボジアにいつから人が住み始めたのかは明らかになっていませんが、少なくとも紀元前4000年頃には住んでいたのではないかと言われています。
紀元前500年頃から東南アジア全域に金属器文化が波及し、この頃から鉄器の文化も始まりました。東南アジアの各地には数百にのぼる大小の民族集団が割拠していたそうです。
前アンコール時代 [Pre-Angkor]
1世紀はじめ頃、メコン側の下流地域に「扶南」と呼ばれる国が建国されました。
現在のベトナム南部にあるオケオ遺跡からは、2世紀のローマ・コインや仏像、ヒンドゥー教の神像、イランの工芸品などが出土しており、幅広い地域と交易をしていたことがわかります。商業国家として繁栄し、稲作も栄えていました。
6世紀頃になると、現在のラオスの南部あたりに「真臘/チェンラ」と呼ばれるクメール人による国家が興ります。もともとは扶南の属国でしたが、少しずつ勢力を増し、7世紀には扶南を併合しました。
ところが、706年ごろに真臘は、「陸真臘」と呼ばれる北部と「水真臘」と呼ばれる南部に分裂してしまい、弱体化が進みます。水真臘は、ジャワ王国のシャイレーンドラ王朝によって支配されていました。
後のクメール王朝につながる「真臘/チェンラ」が6世紀ごろに誕生。世界遺産にも登録されている「サンボー・プレイ・クック遺跡」は、イーシャナヴァルマン1世によって、当時の首都として定められました。
アンコール時代 [Angkor]
❶アンコール王朝のはじまり
802年頃、ジャヤヴァルマン2世がシャイレーンドラ王朝から水真臘を解放し、分裂していた国を統一したことから、アンコール王朝(クメール王朝とも呼ばれます)が始まります。
ジャヤヴァルマン2世は、聖山の一つであるプノン・クーレンで即位を宣言しました。
シャイレーンドラ王朝による支配を受けていた頃は、大乗仏教の影響もありましたが、アンコール時代からは基本的にヒンドゥー教による国家建設が始まります。
アンコール王朝それぞれの歴代の王については別の記事でさらに詳しく解説しているので、ぜひそちらもチェックしてみてください!
プノン・クーレンはシェムリアップから日帰りでも観光できます。滝が有名で、観光客だけでなく地元の人たちのレジャースポットとしても大人気の場所です。プノンは「山」、クーレンは「ライチ」を意味します。
Klook.com❷首都「ハリハラーラヤ」の誕生
アンコール王朝はじめの首都は、ハリハラーラヤと呼ばれました。シェムリアップから車で20〜30分程度の距離にあるロリュオス遺跡群の位置です。
3代目の王となるインドラヴァルマン1世によって創建されたと言われています。特に、当時の国家寺院として建立されたバコン寺院は、ロリュオス遺跡群最大であり、アンコール王朝初のピラミッド型寺院として有名です。
❸「ヤショーダラプラ」への遷都
4代目の王であるヤショーヴァルマン1世は、後継者争いによって王宮が破壊されたため、アンコールへの遷都を決めます。889年、「ヤショーダラプラ」に遷都が行われました。
当時の中心地は、3聖山に数えられるプノン・バケンです。頂上に寺院を建設し、環濠都城をつくりあげました。
この後、何代もの王が即位しますが、勢力争いや逝去が絶えず、あまり長くは続かなかったと言われています。
プノン・バケンは夕日の鑑賞スポットとして大人気です。アンコール・ワットよりも高い位置にあり、アンコール・ワットの5つの尖塔をすべて上から見渡すことができます。
❹アンコール・ワットの創建
1113年、スーリヤヴァルマン2世が即位します。周辺国との戦いを重ね、王国の勢力範囲を広げていきました。
その範囲は、タイ中部からマレー半島、そしてベトナム南部にまで及んだと言われています。スーリヤヴァルマン2世は寺院建設にも大変熱心で、アンコール時代の最高傑作であるアンコール・ワットを創建しました。
しかし、スーリヤヴァルマン2世の没後、再び国内は王位争いが続き、1177年にはチャンパ王国からの攻撃により王都ヤショーダラプラが破壊されてしまいました。
Klook.com❺アンコール王朝の最盛期
1181年に、ジャヤヴァルマン7世がチャンパ王国との戦いの末に、王都ヤショーダラプラを奪還し、王として即位します。
12世紀末にアンコール王朝は最盛期を迎え、タイやラオス、ベトナムの一部をも領有していました。チャンパ王国との戦いの様子は、バイヨンの壁面にも描かれています。
ジャヤヴァルマン7世は、他の王と異なりヒンドゥー教ではなく、大乗仏教を篤く信仰していました。バイヨンやタ・プロームをはじめとして、数々の仏教寺院を建立しています。
また、寺院だけでなく、国内に102箇所の病院と主要街道に宿場を建設しました。政治や宗教だけでなく、庶民の生活にも関心を寄せていたことが窺えます。
アンコール王朝には数々の王の名前が登場しますが、特に有名なのは「スーリヤヴァルマン2世」と「ジャヤヴァルマン7世」です。
この2人は信仰していた宗教が異なり、それが寺院の造りや装飾にも影響を与えています。ぜひ観光の際は、意識して観察してみてください!
❻アンコール王朝の衰退
ジャヤヴァルマン7世の没後、再び後継者争いが激しくなり、国内は混乱に陥ります。また、度重なる寺院建設に莫大な費用がかかっていたため、国力も衰退していきます。かつての支配地域から、次々に新しい国が独立していきました。
14世紀後半から勃興したアユタヤ王朝との戦いによって、王国は疲弊し、1431年にはアンコール・トムが陥落しました。
後アンコール [Post-Angkor]
この時代は、「カンボジアの暗黒時代」とも呼ばれています。1431年の首都陥落の後、当時の王はスレイ・サントーに首都を移転しました。
しかし、長くは定着せず、プノンペン、ロンヴェク、ウドンと次々に遷都。シャム(当時のタイ)やベトナムからの攻撃を受け、国力は衰退の一途を辿っていきました。
かつてクメール帝国が支配していた広大な領土も次々と削られていき、シャムとベトナムからの圧力が増していきます。国として独立を保つのも危うい状態が続きました。
シェムリアップ [Siem Reap]という地名には、「シャム(タイ)を退ける」という意味があります。17世紀にカンボジアが勝利し、土地を奪還したことに由来しているそうです。
インドシナ植民地時代から独立へ
19世紀中頃からフランスによるインドシナ半島の植民地化が始まりました。
1863年に、カンボジアのノロドム国王が同国に対するフランスの保護権を認めます。これは隣国であるタイやベトナムからの侵略を防ぐための苦渋の決断でもありました。
1941年にシハヌーク王が当時18歳で即位。1945年3月には、日本軍の作戦に呼応する形で、一度カンボジアの独立を宣言します。日本軍の降伏により再びフランスの支配下となりますが、粘り強く独立運動を続けた結果、1953年11月には完全な独立を果たしました。
シハヌーク政権時代とクーデタ
カンボジア独立後、シハヌークは父に王位を譲り、自身はサンクム・リアハ・ニヨムと呼ばれる政治団体を結成します。「独立の父」として国民の人気が高く、1955年には首相兼外務大臣に就任しました。
1960年に父が逝去した後は、国家元首に就任。隣国のベトナム戦争をめぐって、アメリカ合衆国と国交を断絶しました。ベトナム戦争による影響はありましたが、当時の国内の食糧は豊富で、まだ大きな混乱は生じていなかったと言われています。
しかし、1970年3月に親米派であったロン・ノル将軍が、シハヌークの外遊中にクーデタを決行し、クメール共和国の樹立を宣言。シハヌーク派を一気に排除しました。しかし、親米的な政策と外交に国内で批判が高まり、反政府活動が激化していきます。
シハヌークは亡命先の北京で、反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかけました。そこに集まってきたのが、ポル・ポトらが指揮する共産主義勢力「クメール・ルージュ」でした。ポル・ポトはシハヌークを擁立し、ロン・ノル政権との内戦を激化させていきます。
ポル・ポト政権時代とカンボジア内戦
1975年にロン・ノルはハワイへ亡命し、クメール共和国は降伏を宣言。ポル・ポトらが率いるクメール・ルージュは、同年に首都プノンペンに入城を果たします。ここからクメール・ルージュによるカンボジア支配が始まりました。
クメール・ルージュは、都市部の市民を強制的に農村地へ移住させ、「民主カンプチア」の樹立を宣言します。貨幣制度廃止や都市住民の農村入植と強制労働など、極端な原始共産社会主義に基づく政策を決行しました。
旧政権の関係者や富裕層、知識層の人々は虐殺され、反乱の疑いがある者は、政治犯収容所に収容されたのちに虐殺されました。
こうした非科学的・非効率的な政策により、大旱魃や飢餓、マラリアの蔓延が深刻化していき、虐殺も含めると、100万人をも超える大量の死者を出しました。一説では、さらに被害の数は大きいと言われています。
1978年12月にベトナム人民軍がカンプチア救国民族統一戦線を結成。
元クメール・ルージュ将校のヘン・サムリンを擁立し、カンボジアへの侵攻を始めました。1979年1月にはベトナム軍がプノンペンを陥落しましたが、反ベトナム勢力などが抵抗を続け、内戦状態が長く続きます。
1990年、カンボジアの各派が参加する和平対話の場として、「カンボジアに関する東京会議」が日本で行われました。1991年には「カンボジア和平パリ協定」が調印され、約20年にも及んだカンボジア内戦がようやく集結を迎えました。
現在のカンボジア
1991年のパリ協定の締結後、新政権が樹立するまでは、カンボジア最高国民評議会と国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による統治が行われました。1993年には総選挙が実施され、ラナリットとフン・センの二人の首相が選出されます。
また、同年には憲法が公布され、シハヌーク王が再び即位しました。これにより、UNTACはその役割を終え、ようやく「カンボジア王国」が誕生します。
その後、国内政権の衝突などもありましたが、1999年には東南アジア諸国連合(ASEAN)への加盟を果たし、国の再建が進められていきました。
もっとカンボジアの歴史を学びたい人へ
ここでは簡単にカンボジアの歴史を紹介してきました。さらに詳しく知りたい人は、ぜひ書籍などを中心に調べてみてください。
また、特にオススメは、シェムリアップの「アンコール国立博物館」です。貴重な史料の数々が展示されており、歴史の流れやテーマに沿って鑑賞することができます。遺跡で発掘された彫刻やレリーフなど5000点以上を保管しており、8つのギャラリーで展示されています。
基本的に展示は英語が中心ですが、日本語ガイド付きの博物館ツアーもあるので、興味のある方はぜひ訪れてみてください。館内は冷房が完備されているので、日中の暑い時間帯に訪れるのもおすすめです。
また、シェムリアップだけでなく、プノンペンにも国立博物館があり、ジャヤヴァルマン7世像などの貴重な彫刻やレリーフ、歴史的史料が展示されています。
カンボジアの歴史|まとめ
カンボジアの遺跡はどれも壮大で美しく、目で楽しむだけでも十分満喫できますが、歴史について知っていると一層おもしろくなります!
これからカンボジアを訪れる予定の人は、ぜひ簡単にでも予習してから観光してみてください。すでに訪れたことのある人も、歴史について学ぶことで、旅行の経験をさらに深められるはずです。
シェムリアップの国立博物館はクオリティも高く、本当におすすめです!遺跡観光の前後にぜひ組み込んでみてください。
シェムリアップを中心としたカンボジアの遺跡は、時代や創建した王によって、それぞれの特徴を持っています。