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アンコール王朝を築いた26人の王|カンボジア遺跡観光を楽しむための歴史知識

かつて東南アジアで繁栄を築いたアンコール王朝には26人の王が在位していたと言われています。王は神と一体化した存在として崇められ、その権威を示すために数々の寺院を建設しました。

カンボジアには数えきれないほど多くの遺跡が存在していますが、実はそれぞれに時代背景や美術様式、宗教観などが表れています。

ちょっとした歴史知識を持っているだけで、遺跡観光の楽しみが倍増すること間違いなしです!ぜひ遺跡観光に出かける前に、こちらの記事を読んで予習してみてくださいね。

CN編集部

今回は「どの時代に、どんな王が活躍したのか?」という点にポイントを絞ってまとめていきます!

クメール帝国における王の役割とは?

当時のアンコール王朝(クメール帝国)では、王位は世襲制ではありませんでした。国を治めるための実力が何よりも重視されていたため、即位は一筋縄ではいきません。時には王位を巡って内戦が勃発し、国内が混乱した時期もありました。

歴代のアンコール王朝の王は26人が確認されていますが、そのうち世襲により即位した王はわずかです。王になるためには、国内と近隣の敵対者を打ち破り、自身の支配下に置く必要がありました。

王は即位後も自身の地盤を固めるために、先王の妻や娘、姉妹と形式上の婚姻を結び、王位継承権を正当化しました。

バイヨン寺院の壁画
バイヨン壁画に描かれた戦の様子

王は、王位に就くとすぐに諡号しごう(戒名)で呼ばれるようになります。即位の儀式を行うことで、王は神と一体化し、現人神あらひとがみとして昇華すると考えられていました。こうした「転輪聖王」の信仰が遺跡建築にも大きな影響を与えています。

初代王であるジャヤヴァルマン2世が、「転輪聖王」および「神なる王(デヴァラージャ)」の祭儀を創設しました。当時、ジャワのシャイレンドラ朝の支配を退ける意図があったと考えられています。

王の権威を示す3点セット

即位を果たした王は、その権威を広く知らしめるために、下記の3つを造成する必要がありました。

  1. カンボジア的宇宙観に立脚した大都城
  2. 国家鎮護の大寺院
  3. 神の世界を模した大王宮

いずれの王もこの新しい3点セットの建設に20年から30年にも及ぶ歳月を費やしたと言われています。

カンボジア全土から造営作業員が集められましたが、それでも人手が不足していたため、近隣のシャム人やモン人、チャム人、山岳少数民族なども手伝っていたそうです。彼らは、来世への功徳を積むための奉仕活動として参加していました。

しかし、実際にはこの新しい3点セットの造営を実現できた王は、26名の中でわずか6名の王だけです。それほど達成は難しく、国を挙げての一大プロジェクトでした。

アンコール・トム

歴史に名を残す偉大な8人のクメールの王

アンコール王朝の歴史には26人の王が登場しますが、この記事ではその中でも特に注目すべき8人の王をご紹介します!

観光名所になっている遺跡とも関連が深い王たちなので、ガイドブックの説明などでも目にする機会があると思います。大まかな時代背景や特徴などを知っているだけでも、遺跡観光が格段に楽しくなるので、ぜひチェックしてみてください!

CN編集部

アンコール王朝が存在した時代は、日本だと「平安〜室町初期」にあたります。日本の歴史と比較するとイメージしやすくなりますね!

アンコール王朝の歴代の王
画像をクリックするとPDFで閲覧できます

くわしく知りたい方には
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ジャヤヴァルマン2世[在位802-834]

ジャヤヴァルマン2世は、アンコール王朝の創始者と言われている王です。802年に現在のプノン・クーレン(マヘンドラパルヴァタ)で儀式を行い、即位を宣言しました。

CN編集部

プノン・クーレンはシェムリアップ中心部から約50kmほど離れた位置にある山で、現在は国立公園に指定されています。

当時、カンボジアは「陸真臘しんろう「水真臘」と呼ばれる2つの国に分裂しており、水真臘はジャワのシャイレーンドラ王朝に占拠された状態でした。

そうした中で、若き王子であったジャヤヴァルマン2世がジャワから帰還を果たし、プノン・クーレンの地で建国を宣言したと碑文に残されています。

シャイレーンドラ王朝とは、8世紀半ばから9世紀前半にかけてジャワ島中部(現インドネシア)に建てられた王朝。大乗仏教を保護し、ボロブドゥール寺院などを建立した。

プノンクーレン
プノンクーレンの滝

ジャヤヴァルマン2世は祭儀官としてバラモン(高僧)を呼び寄せ、この地で即位の儀式を行いました。この祭儀は、カンボジアに対して宗主権を主張するジャワとの主従関係を断ち切る目的もあったと考えられています。

もともとカンボジアでは昔から土着の精霊信仰が根付いていましたが、それらとヒンドゥー教を融合させ、「神なる王」の概念を生み出しました。サンスクリットでは「デヴァラージャ」と呼ばれます。アンコール王朝において、王は神と一体化した存在であると考えられていました。

プノン・クーレンってどんな場所?

インドラヴァルマン1世[在位877-889]

3代目の王であるインドラヴァルマン1世は、ハリハラーラヤ(現在のロリュオス遺跡群の辺り)の礎を築いた実力者として知られています。ハリハラーラヤは、最初にアンコール王朝の都が置かれていた場所でした。

初代王であるジャヤヴァルマン2世に自分の娘を嫁がせ、孫を2代目の王に就かせました。自身の在位期間は短いながらも、陰ながら王国を支配していた人物であると考えられます。

アンコール王朝の王の系譜

インドラヴァルマン1世は、アンコール王朝の王たちが成すべき3点セット(大都城・大寺院・大王宮)の原案を作った人物としても評価が高いです。また、「インドラタターカ」と呼ばれる農業経済の基盤となるバライ(貯水池)も造営しました。

インドラヴァルマン1世は、約600年にわたるアンコール王朝の繁栄の基盤を築いた王として評価されています

バコン寺院
インドラヴァルマン1世に関連する遺跡など

ヤショーヴァルマン1世[在位889-910頃]

ヤショーヴァルマン1世は、インドラヴァルマン1世の息子です。母親は名家出身のインドラデヴィ王妃でした。

当時、インドラヴァルマン1世の息子たちの間では次の王位をめぐって激しい武力闘争が起きていたと言われています。熾烈な争いを経て、ヤショーヴァルマン1世は実力で王座を勝ち取りました。

碑文によると、ヤショーヴァルマン1世は「並外れた筋骨隆々の力持ち」であったそうです

王位を巡る争いの結果、王宮やバコン寺院が破壊されてしまったため、ハリハラーラヤから新しい地に移る必要がありました。そこで選ばれたのが現在のアンコールの地です。

ヤショーヴァルマン1世は、ハリハラーラヤの前例にならって、新しい都城・寺院・王宮の3点セットを建設することに決めました。都城はプノン・バケン丘上に造営され、頂上には国家鎮護の大寺院が建設されました。王宮は寺院の北側に建てられていたと考えられています。

プノン・バケン寺院
プノン・バケン寺院頂上からの眺め

また、ヤショーヴァルマン1世の治下では、「ヤショダラタターカ」と呼ばれる巨大な貯水池も造成されました。「東バライ」とも呼ばれるこの貯水池は、広さが7×2.5kmもあります。現在では水が涸れてしまっていますが、当時は農業経済を支える重要なインフラでした。

ヤショーヴァルマン1世に関連する遺跡など

ジャヤヴァルマン4世[在位928-941頃]

ヤショーヴァルマン1世の後は、2人の息子がアンコール地で統治を続けていましたが、921年にジャヤヴァルマン4世がクーデタを起こし、シェムリアップから北東に約100km離れたチョック・ガルギーヤール(コー・ケー)に拠点を構えるようになりました。

クーデタの結果、帝国内の勢力はアンコールとコー・ケーに分裂し、921年から928年の間は二政権が並立していたことになります。ジャヤヴァルマン4世は旧権力とアンコール都城を否定し、新しい土地で都城・寺院・貯水池を次々と建設していきました。

928年に正式に王位が認められると、多くの人々がアンコールの地からコー・ケーに移住してきたと言われています。移住してきた人々の支持を集めるために、巨大で絢爛豪華な建築をアピールしていたようです。

コー・ケー遺跡群

巨大ピラミッドは超必見!

ジャヤヴァルマン4世に関する遺跡など
  • コー・ケー
  • プラン
  • プラサート・トム
  • プラサート・クラハム
  • ラハル貯水池

ラージェンドラヴァルマン2世[在位944-968]

941年ごろ、ジャヤヴァルマン4世の息子であるハルシャヴァルマン2世が即位しました。しかし、944年にはラージェンドラヴァルマン2世がコー・ケー都城を攻撃し、ハルシャヴァルマン2世は敗北してしまいました。

その結果、アンコールの地に再び遷都されることになったのです。ラージェンドラヴァルマン2世は、ヤショダラプラ都城(アンコールの地)を整備し、復活のための工事を行いました。伯父であるヤショーヴァルマン1世を尊敬していたようです。

ラージェンドラヴァルマン2世の治下では、優秀な専門分野の高官が輩出されました。王師であったヤジュニヴァラーハは実弟とともにバンテアイ・スレイ寺院を建立しました。国内にいくつかの反乱はあったものの、比較的平和な時代であったと考えられています。

CN編集部

バンテアイ・スレイは「アンコールの宝石」と呼ばれることもあるほど、その芸術性の高さが評価されている寺院です。クメール美術の最高傑作ともいえる遺跡で、観光スポットとしても人気を集めています!

バンテアイ・スレイ寺院
バンテアイ・スレイ寺院

超人気の観光スポット!

ラージェンドラヴァルマン2世に関する遺跡など

*修復した寺院も含みます

プレ・ループ寺院
東メボン寺院

スールヤヴァルマン1世[在位1002-1050]

スールヤヴァルマン1世の時代は、王位をめぐって国内が混乱していた時期でした。10代目の王であるジャヤヴァルマン5世の後、3人の王が王位獲得のために争っていました。

1001年にウダヤディティーヤヴァルマン1世が即位したと碑文に残されていますが、即位はわずか1年間だけで、アンコール都城に入場した記録がありません。

その後、王として名乗りをあげたのがジャヤヴィーラヴァルマン1世スールヤヴァルマン1世の2人でした。どちらも1002年に即位を宣言しており、同時に2人の王が併存する極めて例外的な状況が続きました。最終的には、スールヤヴァルマン1世が勝利し、王としての即位を果たします。

スールヤヴァルマン1世の治世の特徴は、その支配範囲の広さです。アンコール王朝の宗主権は、現在のラオスのルアンパバーンタイのチャオプラヤ川下流にまで及びました。

プレア・ヴィヒア寺院
プレア・ヴィヒア寺院

また、スールヤヴァルマン1世の活動は48年間にも及び、その長期間の中で多くの寺院も建設しています。コンポン・スヴァイの地域では、アンコール・ワットの約4.7倍の大きさのプリア・カーン寺院を建立しました。

観光地として人気の高いプレア・ヴィヒア寺院の改修や増築も手がけています。また、近年の研究により、西バライの造営工事にもスールヤヴァルマン1世が大きく寄与していたことも判明しました。

スールヤヴァルマン1世に関する遺跡など
  • 北クレアン
  • バプーオン
  • プレア・ヴィヒア
  • 西バライ
  • ワット・プー
  • プノン・サンダック
  • ロイヤルパレス
  • ピマイ

スールヤヴァルマン2世[在位1113-1150頃]

スールヤヴァルマン2世といえば、アンコール・ワットを建立した王として有名です。アンコール王朝史上、最大の石造大伽藍と言われています。

18代目の王となるスールヤヴァルマン2世も即位の際には、王位をめぐって激しい戦いが繰り広げられました。当時カンボジアは二つに分断されていましたが、スールヤヴァルマン2世が勝利し、二国を統一したと伝えられています。

スールヤヴァルマン2世
アンコール・ワット第1回廊の南側壁面

激しい戦いの末、旧王宮は徹底的に破壊されており、そのまま引き継ぐことができませんでした。また、スールヤヴァルマン2世はヴィシュヌ神を信仰していたため、既存のシヴァ派寺院を使用せず、新しい寺院の建設を決意しました。それがアンコール・ワットです。

スールヤヴァルマン2世に関する遺跡など

アンコール・ワットは、1万人近い作業員が従事し、30年以上もの歳月を費やして建設されたと言われています。これだけの巨大建築物を造営するには人的資源が不可欠であり、それを支えたのがバライ(貯水池)や盛土堤防を活用した二期作でした。

アンコール・ワットを取り囲むように配置された環濠は、まさにカンボジアが「水の帝国」であったことの象徴といえます。

アンコール・ワットの全体像

スールヤヴァルマン2世の治下では、ヴィシュヌ派が優勢となっていたようです。そのため、アンコール・ワットの第1回廊東側の壁面には、乳海攪拌を行うヴィシュヌ神の姿が大きく描かれています。

乳海攪拌をモチーフにした浮き彫りはたくさん存在していますが、アンコール・ワットは圧倒的なスケールで描かれています!

乳海攪拌を行うヴィシュヌ神
アンコール・ワット第1回廊の東側壁面

当時、王は神と一体化した存在だと考えられていました。アンコール・ワットの壁面に描かれたヴィシュヌ神の顔をよく見比べてみると、どことなくスールヤヴァルマン2世の容貌と似ている気がしてきますね。

ヒンドゥー教ってどんな宗教?

ジャヤヴァルマン7世[在位1181-1218頃]

アンコール王朝史上もっとも偉大な王として語り継がれているのが、ジャヤヴァルマン7世です。この王の治世である12世紀末から13世紀初めごろの約25年間が、もっとも王朝が反映した時期だと言われています。

ジャヤヴァルマン7世は寺院だけでなく、数々の建築物を手掛けました。すべてをご紹介しきれないので、今回は代表的なものをピックアップします!

ジャヤヴァルマン7世に関する遺跡など
  • アンコール・トム
    (高さ8mの防衛壁、幅100mの濠、五城門など)
  • プリア・カン
  • バイヨン
  • タ・プローム
  • バンテアイ・クデイ
  • ニャック・ポアン
  • バンテアイ・チュマール
  • タ・ソム
  • 大プリア・カン
  • 施療院・灯明の家
  • 貯水池ジャヤタターカ
  • 盛土版築道の整備

ジャヤヴァルマン7世の即位までの道のりは、とても険しいものでした。ジャヤヴァルマン7世は、18代王であるスールヤヴァルマン2世が逝去した頃から隣国チャンパに遠征しており、即位の機会を待っていました。

チャンパとは、2世紀末〜17世紀ごろに現ベトナムの中部から南部にかけて存在したチャム人の王国。中国では林邑りんゆうと呼ばれていた。

ジャヤヴァルマン7世の彫像

しかし、1165年にチャンパの王であるトリブヴァナーディティヤヴァルマンによって、アンコール都城が占拠されたことで状況が大きく変わります。ジャヤヴァルマン7世はアンコール都城を救うべく、国内の某所で12年以上も反撃の機会を狙っていました。

1181年にはついにトンレサップ湖上で決戦が行われ、ジャヤヴァルマン7世の率いる軍はチャンパを打ち破り、アンコール都城を取り戻しました。当時の戦いの様子は、バイヨン寺院の外回廊南面にも描かれています。

バイヨン寺院
トンレサップ湖での激戦の様子
CN編集部

バイヨン寺院を訪れたら絶対に見逃せないポイントですね!ぜひ当時の歴史を辿りながら歩いてみてください。

チャンパ王国の支配を退けた後も、国内では反乱が続いていたため、ジャヤヴァルマン7世は頻繁に遠征に出かけていたと言われています。その結果、広大な地域がアンコール王朝の支配下となりました。

ジャヤヴァルマン7世は、父王ダラニンドラヴァルマン2世と同じく敬虔な仏教徒でした。仏教の中でも「大乗仏教」を信仰し、観世音菩薩かんぜおんぼさつに帰依していたと言われています。

バイヨン寺院の四面仏

現在のシェムリアップ周辺の仏教遺跡のほとんどは、ジャヤヴァルマン7世が手掛けた建築です。観光スポットとして人気の高いバイヨンタ・プローム、プリア・カンは、いずれも仏教寺院です。

三島由紀夫の戯曲『ライ王のテラス』

日本を代表する作家「三島由紀夫」は、アンコール・トムを1965年に実際に訪れ、ジャヤヴァルマン7世を主人公にした戯曲を生み出しました。それが『ライ王のテラス』です。

アンコール王朝を空前絶後の繁栄に導いたジャヤヴァルマン7世が、病魔に侵され、悲劇に翻弄されながらも、その精神を昇華させていく姿を見事に描いています。

初演は1969年に北大路欣也主演で上演されました。近年では、2016年に宮本亜門演出・鈴木亮平主演で上演されています!

現在のカンボジア王室

カンボジアは19世紀中頃から20世紀にかけて、国の存亡が危ぶまれる激動の時代を歩みましたが、現在のカンボジアは立憲君主国であり、王室が今も存続しています。

カンボジアの近現代史については別記事でご紹介しているので、ここでは近現代史において重要な2人の国王をご紹介します!

プノンペンの王宮

ノロドム・シハヌーク前国王

シハヌーク前国王は、1941年に18歳で即位しました。当時のカンボジアはフランスの保護国(植民地)となっていましたが、粘り強く独立運動を続けた結果、1953年11月に独立を果たしました。

まさに「独立の父」として、現代のカンボジアの礎を築いた人物であると言えます。

しかし、平和な時期は長く続かず、1970年にはロン・ノル将軍によるクーデタが発生。内戦が激化していく中で、クメール・ルージュによる恐怖支配が行われ、国内は混乱を極めました。1991年に「カンボジア和平パリ協定」が調印されるまで、20年以上もカンボジア内戦は続きました。

1993年にようやく総選挙が実施、憲法が公布され、シハヌーク王が再び即位しました。

カンボジア紙幣に描かれたノロドム・シハヌーク前国王
5000リエル紙幣

激動のカンボジアの歴史の中で、シハヌーク前王は国王を2度経験しただけでなく、大統領に1回、首相に2回就任しました。ほかにも国家元首亡命政府のリーダーなど、数々の肩書きを経験しています。

そのため、ギネスブックでは「世界の政権で最も多くの経歴を持つ政治家」として認定されました。

もっと詳しく知りたい方へ

ノロドム・シハモニ国王

2004年10月20日にシハヌーク前王が退位した後に即位したのが、息子であるノロドム・シハモニ国王です。彼には、14人の異母兄弟と異母姉妹がいました。

実は政治家としては異色の経歴で、1960年代から70年代にかけて、プラハでクラシックダンスを学び、その後は北朝鮮で映画技術を習得したと言われています。ポル・ポト政権時は幽閉されていましたが、1981年に脱出した後はフランスに渡り、さまざまな音楽院で教授としてバレエを教えていたそうです。

1993年からはユネスコの大使を務め、約20年間フランスに滞在していましたが、2004年にカンボジアの特別評議会によって次の国王に任命され、カンボジアに帰国しました。

カンボジア紙幣に描かれたノロドム・シハモニ国王
2000リエル紙幣

まとめ|歴史を知ると遺跡がもっと楽しめる!

今回の記事では、かつてアンコール王朝を築いた26人の王を紹介しました!

ガイドブック等を読んでいると色々な王様の名前が出てきて混乱することもありますが、だいたいの歴史の流れを理解していると、より遺跡観光が楽しめるはずです。

ぜひスールヤヴァルマン2世ジャヤヴァルマン7世などの代表的な王の名前だけでもチェックしてみてくださいね。

注目すべき8人の王
  • ジャヤヴァルマン2世
  • インドラヴァルマン1世
  • ヤショーヴァルマン1世
  • ジャヤヴァルマン4世
  • ラージェンドラヴァルマン2世
  • スールヤヴァルマン1世
  • スールヤヴァルマン2世
  • ジャヤヴァルマン7世